死んだ人のために時間を使ってよいものか。残された時間をどう生きるか。
限定局面から発想して自分の生き方についてもう一度考える。
ある人の配偶者と子供が、犯人によって殺された。
殺された配偶者も、殺された子供も帰ってこないんだけど。
- 社会がよくなったところで、
- 犯人が死刑になってもならなくても
死の意味は、死んでしまったらおしまい。絶対に戻せないのが死であって。
その死は、交番の掲示板に書かれた昨日の管轄内での死者1名と少年に殺された1名とは同じなわけで。
(誰かがドラマチックに扇動しているかも知れません。)
残されたある人は、どんなことをするだろう。
どうしても犯人を自分の手で殺したいなら、確実に出所できるぐらいの量刑にしておいて(被害者の遺族が決めることではないが)外の社会に出たころに復讐を自分の手ですればいいだけのように思う。まぁ確実に自分の人生も棒に振るが…。
そこまでするなら、自分の人生を自ら終わらすという手もあるし。
どの道、質的には、どんな刑罰を犯人が受けようと、自分の手で犯人に復讐したところで何も変わらないのだ。
(映画なんかでは、犯人を殺す瞬間に、犯人が被害者を殺した光景が自分の中でオーバーラップしてなんてシーンがあるけど)
犯人が捕まらないから、懸賞金を出さない遺族は、被害者のことを愛していなかったのか?
情報提供のビラを配らないのは、被害者遺族として失格なのか。
被害者の部屋をそのままにしておかなくてはいけないのか?
毎日、被害者の分のご飯を作るのが愛なのか。
被害者がいわゆる被害者像というか、
何かに縛られているようにも見える。
犯人を許してしまったら…
選択肢としてあるのは、
- 少年事件の死刑適用可能性への道筋をつけること、被害者、被害者遺族の広い意味での救済
- (性的犯罪者のミーガン法のような今後の類似犯罪を防ぐことが可能なことへの波及ができるような犯罪であれば、そのような法律をつくる働きかけ)
- 復讐、あだ討ち
- 自殺、出家
- 新しい人生を踏み出す。
生き残った人の人生は、どうあるべきか。
ここまでが、ケーススタディでした。
極端に限定されたケースで考えると、そのように限定されていない自分の置かれた状況が考えやすくなります。
なんとなく不安もなく、生きているのは、自分の置かれた状態が読めていないからかもしれません。
あなたは、明確な決断を求められず、したつもりもなく生きていませんか?
青い錠剤か、赤い錠剤をのむかなんて、誰も聞いてくれないのです。
また、「誰かのため」、「正しさ」という言葉で自分を動かそうとするのは、選択肢を選ぶ際に簡単にゆがみを与えてしまうように思えてなりません。あなたは過去の選択時に「誰かのため」、「正しさ」という言葉で自分の判断にいたる条件づけをゆがめませんでしたか?
あなたが楽しい、幸せだと思えない人生に何の意味があるのか?
戻らないものを欲しがることに何の意味があるのか?