「見逃し三振を恐れて無理やり空振三振にすること」と「失敗があることから生まれること」

例えが野球で申し訳ない。

「見逃し三振」は消極性の表れであった。
野球の監督に怒られるのがイヤで、見逃し三振をして怒られるより、とにかく空振り三振の方を毎回選択しているプレイヤーがいた。

見逃し三振よりもこっちの方がタチが悪いと思う。

見逃し三振は、ツーストライクという場面把握とその対応策ができていないことのあらわれ。
審判の判定がどうこうとか言い訳できない状況なのは明らかだ。
でも、まだ対応策が打てる。
もし、本当に積極性が出せないなら積極性の出せるように訓練すればいい。

メンタルな部分がひとつひとつのテクニカルな動作を確実にし、その技術は、自信というメンタルな部分に正のフィードバックを与える。根性という言葉は、スポーツから否定されたけど、昔からスポーツはメンタルな部分に大きく支えられていることを理解していたのかもしれない。根性だけでは、どうにもならないということを知るのに多くの犠牲を払ったけど。

見逃し三振を隠すための空振り三振をする人には、どうにも出来ない。外からは直接、原因をうかがいすることをできない。

せいぜいバッティング練習しなさいの言葉をかけるぐらいだろう。

刑事事件の第1審有罪率99.8%という世界

刑事事件の第1審の判決は、99.8%だそうである。非常に緻密な作業によって検察は有罪を勝ち取っていると理解されるだろうか?

しかし、99.8%を維持するためには、有罪に持ち込めなさそうな事件は、嫌疑不十分として起訴しないという選択がされている。そうではないと、彼らは認めないかもしれないが。

中には、証拠がもうこの世に存在しない、崩せないアリバイがあるなど犯罪者側の勝利というケースが多いかもしれない。
検事の出世のために担当した事件が確率2/1000しかない無罪の判決を出したら相当まずいだろう。

危ない橋を渡らないという選択だ。
世の中には、三振をしないために、バッターボックスに入らないという選択もあるのだ。
もちろん、そのためにはほぼ100%有罪判決を得られるという自信がない案件については、見ない振りをして失敗をしない。
失敗をしないということも犠牲を払っている。

最近、失敗をしていないとおもったら、自信を持つより自分のハードルが低くないかチェックしてみて。

逆説的な言い方をすれば、失敗をしている<追記>失敗をしていないということは、新しい試みをしていないということ。

ところで、私の世界観は

 絶望的にくだらない物事がどんなにもがいても永遠に続く世界

だ。
だからといって悲観することはない。
希望がない?
そうなら、こんな世界観を信じなくてもいい。でも、私は、あなたにこう言う。

「現実の世界へようこそ、ネオ。

本当は、薄々気づいてたでしょ?」

現実逃避をする必要もなく、宗教的な意味すらある「夢」や「人生の意味」を求める必要もない。

この世界は、何もないこと以外のことは何も用意されていない。
何をやっても自由だ。
ずっと寝ててもいいし。
何もしなくてもいい。

でも、刺激のない生活はつらい。

仕事の合間に摂取するタバコ、アルコール、麻薬は、合間だから気持ちいいのではないか。
どっちかにどっぷり使ってしまうとつまらなくなってしまう。

いずれにせよ、それぞれの選択だ。
(選択肢のひとつとして、ここまででこの文書を読むのをやめてもいいんだよ。どうせ大したことはこの先にも書いてないよ。)

私の選択

私は、ちょっとマシにし続ける時間をすごせればうれしい。
マシにするのは、
「新しい方法を試して失敗を受け入れる。」
新しい方法を試せないのは<作って遊ぶ>ができないから、つまらないし。
失敗ができない環境はマンネリ。
失敗で強く落ち込む必要もない。(だって元々失敗するようなリスクを負ってやっているんだ。)
失敗から新しい創造的試みが生まれるかもしれない。
(失敗の定義があやふやだけど。)
きちんと向き合える失敗と付き合おう。

ちょっと言い訳とあとがき

以前、もし余裕があれば、チャレンジすることをおすすめしました。

id:neutral23:20060509

積極的にチャレンジすれば、「絶対に」成功が得られると解釈してしまわないでほしいということで書きました。
ただ、失敗にもいろいろあるよ。ってことだよ。